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城南宮と鳥羽離宮跡 2007年元旦

正月神楽(動画) 正月の3か日、災い除きの神楽が神楽殿で奉納される

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城南宮は京都市内でもそれほどメジャーな神社ではないが春秋に神苑で執り行われる「曲水の宴」がテレビ中継などされご存知の方も多いだろう。

起源は古く平安遷都の頃に遡る。京の南に位置し、裏鬼門に当たり方除け神として市民には知られている。最近では交通安全、建築の神様として多くの参拝者がある。

左の写真は1日の初詣風景。多くの人が参拝のため列を作り拝殿にたどり着くにはかなり時間がかかる。

上の動画の正月神楽を始め1年を通じ色々な神事が行われる。

公式HPはここ

境内点描  下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


参 道

鳥 居

本 殿

神楽殿

神 楽

神苑(一部)

鳥羽離宮跡

城南宮のある場所は京都市の南、国道1号線沿い、京都南インターチェンジの近くで車の音が絶えない、かなり雑然としたところで神社の一角を除きおよそ静寂とは縁遠い。

しかし、この辺りの地は平安後期白河天皇が藤原摂関家の影響を避けるため広大な宮殿を建て院政を執り行ったところで、当時は広大な池のある庭園や政庁が立ち並んでいたそうである。城南宮もその敷地内に取り込まれ鎮守社として祭られていた。

白河上皇に続き鳥羽上皇もここで院政を敷き、後鳥羽上皇が承久の乱で幕府に敗れるまでさながら副都心として栄えていたそうである。

現在も、この周辺の街角に当時の面影を偲ばせる天皇陵や遺跡が散在する。

この写真は発掘された遺跡後に作られた鳥羽離宮跡公園で、明治維新の頃この辺りで伏見鳥羽の戦いが行われた。

安楽寿院

鳥羽上皇が離宮の東殿に建立した寺。現在も残っている。

この辺りにはこの頃の天皇(白河天皇、鳥羽天皇、近衛天皇)の御陵が散在している。下の写真にあるがこのように建造物のある天皇陵は珍しい。

また、鳥羽上皇の北面の武士として仕えていた西行の邸宅後を示す碑もある(そうだ)

手前の石版は当時の鳥羽離宮の復元図。

下の点描写真で拡大して見られる。

鳥羽離宮跡点描  下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


案内板地図
説明文↓

院政庁跡
記念碑

白河天皇陵

鳥羽天皇
安楽寿院陵

近衛天皇
安楽寿院南陵

説明文

 鳥羽離宮は、平安時代後期に白河上皇の院政開始の象徴として造営が開始された御所と御堂および苑池からなる広大な離宮である。

 その範囲は、東西1.5km、南北1kmにもおよび、当時の日記に、「都遷りがごとし」といわれるほどであった。この地は、平安京の朱雀大路からまっすぐ南に下がった場所にあたり、現在とちがって鴨川は東から南に流れ、西には桂川が流れて、水閣を築くのに絶好な地形であった。

 造営は、応徳3年(1086)に始まり、北殿・南殿・泉殿・馬場殿などがあいついで完成した。これらの殿舎は、右にかかげた広大な池に接して造られ、舟で行き来していた。各々の殿には寝殿を中心に殿舎や御堂(仏像を安置)が建ち並び、次の鳥羽上皇の時代に入って、東殿・田中殿の造営が加わり、それぞれ苑池も造られた。

このうち現在の安楽寿院を含む東殿には、三重の塔3基、多宝塔1基が築かれるなど、他の殿とは異なった様相を呈していた。そしてこれらの塔には、白川法皇(成菩提院陵)や鳥羽上皇(安楽寿院陵)、近衛天皇(安楽寿院南陵、再建多宝塔が現存)の御骨が収められ、墓前に御堂が造られた。

 このように東殿の区域は、死後の世界を用意したもので、まさしく極楽浄土を現世に築きあげたことが分かる。

 院政最盛期の証でもある鳥羽離宮跡は、当時の最高の文化と技術を駆使して築かれたが、院政の終焉とともに衰退し、地上からその姿を消していった。

 この鳥羽離宮の発掘調査が開始されたのは、1959年の田中殿跡の調査からである。以後1984年までには100次をこえる調査が実施され、南殿の殿舎や苑池跡、北殿経蔵や苑池跡。田中殿金剛心院跡、東殿苑池跡の発見など大きな成果を上げている。

 これらの調査を自ら始められ、地元の方々や多くの調査関係者らとともに当初から手がけてこられたのが杉山信三博士(1906-1997)である。ここに示された鳥羽離宮復元鳥瞰図は、博士の長年の調査成果を集大成されたもので、鳥羽離宮跡顕彰の石杖として、阿弥陀如来座像や石製五輪塔(いずれも重文指定)など、往時の文化財を今に伝える安楽寿院境内に置くことにした。


1998年12月

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