目次へ戻る 志賀@高槻                                             2013.4.19

銀 閣 寺 春期特別公開

 銀閣寺は室町幕府の8代将軍足利義政(1436-1490)が晩年を過ごした山荘東山殿を後に寺院としたものである。現在は京都五山の一つ臨済宗相国寺の境外塔頭で正式名を東山慈照寺という。同じく3代将軍足利義満によって創建された金閣寺とともに京都の有名な観光スポットの一つである。山荘の大部分は後に消失したが、上の写真にある通称銀閣、正式名観音堂と、義政が日常生活に使っていた東求堂(とうぐどう)は創建当時のものでいずれも国宝に指定されている。 このたび、春の特別公開として内部が公開された方丈と東求堂を拝観したので紹介する。ただし、内部は撮影禁止なので見学時にもらったパンフレットの画像も使用している。 上の写真は方丈縁側から撮ったもので、手前の石庭は白川砂を引きつめたもので銀沙灘(ぎんしゃだん)とよばれ水面の波紋を表現している。中央の円錐形の砂盛りは向月台とよばれ満月を象徴している。右後方はいうまでもなく銀閣(観音堂)である。


こちらは裏手の池から撮った観音堂。このあたり回遊式庭園となっている。

銀閣というものの実際に銀箔が貼られていたわけでなく、黒漆が塗ってあるそうだ。

なお、義政自身はこの観音堂が完成する前に他界した。

東求堂(右建物)方丈(その左手)

東求堂は義政の持仏堂で書斎としても使っていたようである。2部屋からなっていて、その一つは同仁斎とよばれる四畳半の書斎で来客のもてなしにも使っていたようで、四畳半茶室の原型と言われる。

義政は政治家としては戦乱を収められず無能であったが、文化人としては超一流で、後半生はここ東山殿にこもり、「わび」「さび」などの現代にも伝わる近世日本文化に強い影響をあたえたといわれる。


同仁斎内部(パンフレットより)

左手に違棚があり正面窓際は文具を置く台となっている。

見学時には左の棚には茶器や陶器が飾ってあり、文具台には、硯や筆などの文具が置いてあった。実はその置き方を示した「君台観左右帳記」という古文書が残されておりそれに従って配置してあった。

畳は四畳半で中央の半畳の部分は取り外し囲炉裏として使え、茶の湯を楽しむことが出来るようになっている。四畳半茶室の原型と言われるゆえんであるが、床の間やにじり口などはまだ出来ていない。


方丈の障壁画(パンフレットより)

与謝蕪村作 棕櫚に叭叭鳥(ははちょう)図

方丈は禅宗寺院の本堂にあたり、最も大きな建物である。ただし、ここ銀閣寺の方丈は江戸中期に建てられたもので、内部は与謝蕪村や池大雅など当時の代表的な画家の描いた障壁画で飾られている。



銀閣寺点描 サムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


参 道
左手の竹垣は銀閣寺垣という

方丈障壁画
飲中八仙図
(蕪村)
8人の酔っ払った仙人の図

義政像

袈裟形手水鉢
東求堂の入り口付近にある

裏山展望所から見た銀閣

後方の山は吉田山

お茶の井
義政が愛用した茶の湯の水源
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