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2007年8月28日〜9月2日の約1週間、中国西北の辺境地帯である新彊ウイグル自治区を旅行したときの記録である。きっかけは、この地方の中心都市であるウルムチ市に地下商店街を開発した大阪の商事会社が企画する視察旅行に誘われたことにある。すでに、この企画は第9回を迎え、今年はウルムチを拠点として、ナラティー、イーニン、トルファンと、いわゆるシルクロードの天山北路のオアシス都市を巡るルートであった。
今回の旅行のルートマップ
赤直線は航空機、青曲線はバスによる(中心部の緑の枠内をクリックすると拡大図が現れます)
8月28日 関空より、北京経由でウルムチへ
ウルムチ海徳酒店で1泊
8月29日 航空機でナラティー空港へ→バスでナラティー草原へ→バスでイーニンへ 将軍双辰大酒店1泊
8月30日 イーニン近郊をバスで見学
セリム湖→ホルゴス国境検問所→ティムール廟 航空機でウルムチへ 海徳酒店で1泊
8月31日 バスでトルファンへ
交河故城→火焔山→ベゼグリク千仏洞→アスタナ古墳群 トルファンカレーズ賓館1泊
9月1日 バスでウルムチへ
地下商店街見学→ウルムチ市長表敬訪問→新彊産業展示会見学→市内観光 ウルムチ 新彊大酒店(Holiday Inn)1泊
9月2日 上海経由で帰国
以下、この順で紹介する。
北京からナラティーへ(上空からの景色) 下のサムネイル(小さな絵)をクリックすると大きくなります
新彊自治区の西北隅(上の地図で緑四角で示した辺り)は比較的雨量が多く、山には木が立ち並び、平地は耕され、トウモロコシ、コウリャンなどの穀物畑が広がり、トマトやホップなどもとれ日本の大手食品会社も直営農場を持っているそうである。上の写真は山岳部に広がる放牧地で一見スイスの高原を思わせる風景である。この地区には軍用地があり以前は入れなかったようだが最近になって観光客に開放され中国人にとっても人気の観光地だそうである。ただし、現在も検問所があり事前に許可を取っておかないと入れないそうである。
草原 遠くに雪を頂く天山山脈が見える。天山山脈は一つの大きな山脈でなく、東西に何重にも重なる山脈群を指すようで手前の山脈もやはり天山山脈の1支脈である
耕作地 コウリャン、トウモロコシ、ヒマワリなどが植えられている。
ナラティー地区点描 下のサムネイル(小さな絵)をクリックすると大きくなります
イーニン市はイリ・カザフ自治州の州都で人口約50万人。主にイスラム教徒であるウイグル族、カザフ族、シボ族などが住む。緑豊かな地なので、古くから多くの遊牧民族や漢人がこの地の支配権を巡って戦った。
古く漢の時代は烏孫国の中心地で、後モンゴル帝国(チャガタイ汗国)の支配下におかれ、14世紀にその子孫であるトゥグルク・ティムール(ティムールとは鉄人という意味 サマルカンドに本拠地をおき中央アジアに広大なイスラム帝国を打ち立てたティムールとは別人)がこの地をイスラム化した。郊外にはその廟がある。
清代になると乾隆帝により直轄地化されロシアに対する辺境防御の拠点として使われた。清朝末にはアヘン戦争を指導した林則徐が敗北の責任を取らされてこの地の長官として左遷され農業開発などに大きな功績を残し地元で尊敬されている。
イーニンと近郊の点描 下のサムネイル(小さな絵)をクリックすると大きくなります
国道とポプラ並木 幹の下部に白い石灰が塗ってあるがこれは防虫と夜間の走行の安全のため |
道ばたの果物屋 |
イリ大橋 イリ川に架かる橋 イーニン市への入り口 |
ティムール像 |
ティムール廟 |
国境近くの交易所 |
カザフスタンとの 国境検問所 |
検問を待つトラックの列 |
典型的な中華料理 好きなものを好きな量だけ食べられるのが有り難い |
ラベンダー この辺りはラベンダー(薫衣草)の一大産地でもある |
セリム湖 イーニンから北に向けて行くとコキルチャン山脈に突き当たる。バスが山間を縫って上っていくと峠を越した辺りで突然前方に広大な湖が広がる。サラム湖である。水面は海抜2070mの高所にあり、周囲の高山の雪解け水を集めて湖を作っている。出水口がほとんど無く塩水湖となっている。かっては魚は生息していなかったらしいが、最近はますやさけなどの海水魚が養殖されており食用にされている。
セリム湖と周辺の点描 下のサムネイル(小さな絵)をクリックすると大きくなります
羊の行進
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湖岸の草原に放牧されている羊
羊は移動するとき、先頭の一頭に続いて一列縦隊になって行進する習性がある。
ウイグル料理とウイグルの踊り
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夕方、イーニン郊外のウイグル料理店で伝統の料理を食した。
途中で、羊の丸焼きが供されたが最長老の客が伝統の衣装(ハッピのようなもの)をまとって第一刀を入れ、その後解体し客全員に振る舞われる。
宴たけなわになった頃、ウイグル人の男女が伝統の踊りを披露した。
トルファンは西域北道のほぼ中央部にあるオアシス都市で、古くから色々な民族がこの地方を支配する重要な拠点とした歴史の古い町である。唐の時代には三蔵法師が経典を求めて天竺(インド)へ旅したとき立ち寄っている。
町はトルファン盆地という海面下マイナス154mの低地にあり、山へ登ると気温が下がるのと反対に気温が上昇し、かつ年間降水量数十mmという乾燥地帯にあることから、真夏の最高気温は常時40度をこえる暑さとなる。しかし、周囲には雪を頂く天山山脈があり雪解け水が流れ下るが、平地に入ると蒸発が激しく伏流水となり地表から消えてしまう。そのため、太古の昔から水の豊かにある山懐から地下にトンネル(カレーズ)を掘り水を導いてきた。その水は飲料水だけでなく灌漑用水として使われ葡萄やハミ瓜などの特産品が栽培されている。
右の写真は町の東部にある交河故城の入り口付近である。
交河故城跡
上の写真は交河故城跡で前漢時代に車師前国の都として築かれ、後に漢の支配下に入り屯田兵がおかれたという。その後、この地方に漢人が建てた高昌国の支城となり、高昌国が唐に帰順した後は唐の安西都護府が置かれ栄えたが元の時代に戦火に遭い廃城となった。都城は台地が2つの河の水流により削られた断崖絶壁に囲まれた帯状の高台の上に築かれ、建物は台地の表面を掘り下げて作られている。
なお、この城とは別に五胡十六国時代にここから少し東に離れたところに漢人が建てた高昌国の都城がありこれも廃城となっている。こちらは玄奘三蔵がインドへ向かう途中高昌国王に歓待されしばらく滞在したところとして知られているが残念ながら今回は行けなかった。
交河故城点描 下のサムネイル(小さな絵)をクリックすると大きくなります
案内パネル 中心の木の葉のような部分が城址 |
入 口 |
通 路 塔は門柱跡? |
比較的よく残っている家屋 |
城跡の中心部 |
要人の部屋 |
中央寺院跡 日干し煉瓦を積み上げたもの |
仏 壇 上部四方に仏像あるがイスラム教徒により破壊されている |
天然の城壁 |
対岸の絶壁 向こうに見える建物は葡萄乾燥場 |
火焔山 トルファン盆地へ至る山間部の難所で西遊記の舞台にもなったところ。鉄分の多い土壌で赤っぽい。特に左手頂上付近はこの地の熱さと相まって炎のように見えると言うことでこの名が付いた。
ベゼクリク千仏洞
火焔山から少し南へ下った渓谷の断崖に築かれた石窟寺院。高昌国の時代に建設が始まりイスラムにより破壊されるまで続いた。 内部には仏像が置かれ壁は極彩色の壁画で飾られていたが、仏像はイスラム教徒により破壊され、出来のいい壁画は近世になりスタイン等の外国人探検家により剥ぎ落とされ持ち帰られた。ちなみに、ベゼクリクとはウイグル語で「装飾された家」という意味だそうである。往時は王族の寺院とされていた。全部で83の石窟があり、そのうち一部の内部が公開されている。
アスターナ古墳群
高昌国、唐の時代の住民の墓地。最近になって発掘され大量の絹製品、陶器、文書などが出土しており、壁画やミイラも残っている。そのうち一部が公開されている。
火焔山、千仏洞、古墳群周辺のスケッチ 下のサムネイル(小さな絵)をクリックすると大きくなります
ウルムチから トルファンへ |
火焔山 |
火焔山入り口 辺りの山 |
千仏洞 入り口方面を望む |
千仏洞 崖の上から望む |
古墳群 |
← 暮室入り口 中には見事な壁画 が残っているもの 夫婦のミイラが 生々しく展示された ものなどが公開 されている。 |
カレーズ博物館
カレーズ(地下水路)はこの町の生活を支える重要な要素だが、なにぶん地下にあるものなので簡単には見られない。そのため、取水口の一部を中心に博物館が作られその構造がわかるようにしている。最近作られたものでこの旅行を企画した会社も設立に協力しているという。この地方特産の乾し葡萄を作る作業工程も見られる。
カレーズの構造は、20〜30mおきに地上から縦井戸を掘りその底を地下トンネルで結び山岳地帯から延々と水を導いてくる。この地では紀元前から建設が始まり多数のカレーズが作られその総延長は5000km
に及ぶという。
ここだけのものでなく、中央アジアの乾燥地帯に多く見られる。イランでは「カナート」と呼ばれる。
ただ最近では、補修のための技術を伝える人が少なくなり、地下深くを流れる伏流水を機械ポンプでくみ上げて水を得るのが主流となっているそうである。
カレーズ博物館とその周辺の点描 下のサムネイル(小さな絵)をクリックすると大きくなります
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トルファンの夜はまたウイグル族の踊りで閉じました。
ウルムチ市は新彊・ウイグル自治区の首都で現在人口が300万に近い大都会である。といっても、改革開放以前は100万に満たない地方都市だったようで、まさに最近の中国のめざましい発展を象徴するような活気に満ちた近代都市である。
歴史的には清朝の時代にロシアに対する国境警備のための軍隊を駐屯させるために建設された町でそれほど古くない。
最近になって石炭や石油・天然ガスなども発見され外国の資本が流入し大変発展している。この旅行を企画した大阪の会社も中心街にファッション製品を中心とする大きな地下商店街を開発し連日若い人でにぎわっているようである。
左の写真は市の中心部にある人民広場で周辺にはいくつもの高層ビルが建ち並んでいる。早朝には多くの人が集まり太極拳を楽しんでいる。
トルファンーウルムチ間は岩砂漠(ゴビ)地帯 |
やがて、平地にはいると遠方にこの地方の最高峰ボコダ峰(5445m)が見える |
ウルムチに入る手前高速道路の左右に無数の風力発電用の風車が見える |
風車一基の発電量は650kWで300台がひとかたまりで並んでいる |
高速道路の前方にウルムチ市街が見えてくる |
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ウルムチ東郊に広がる風力発電所群。
1基の発電能力は650kW 。これが300台集まって一つの発電所をつくる。すなわち1発電所の発電能力は約20万kW であり大型水力発電所に匹敵する発電能力がある(黒部川第4発電所は33万kW) このような発電所が計画中のものも含め3個所ある。300の風車が一斉にまわっているのは(実際には2〜3割はなぜか動いていないが)なかなかの壮観である。
この辺りは、天山山脈に挟まれた土地で常時東西方向に強い風が吹いており立地条件に恵まれていることもあるが、中国がここまでやっているということはかなり印象的である。
ウルムチ市内点描 下のサムネイル(小さな絵)をクリックすると大きくなります
市庁舎 ここに市長を表敬訪問した |
市庁舎から見た市内 |
新彊産業展示会会場 |
街角風景 |
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大果物市場 |
いろんな果物 |
露天のお店 |
葡萄専門店 |
乾葡萄 薬品は一切使用していないとのこと |
ハミ瓜 大変美味 |
地下街入り口 |
歓迎幕 |
賑わう地下街 |
ブティック |
ネールメイク |
コーヒーショップ |
またもやウイグルダンスと音楽
ウイグル市長による、新彊産業展示会出品者への招待晩餐会の模様です。
これまで何度も外国を旅行しているが、ほとんど学会出席の前後を利用したもので、専門柄アメリカ・ヨーロッパばかりで中国は今回が初めてである。また、グループツァーも初めてで楽な反面いろいろとまどいもあった。
さて印象であるが、やはり聞いていた通り中国の最近の発展ぶりはすごいの一語に尽きる。今回行ったのは広大な中国の西北隅の辺境で昔なら人跡まれな所のはずだが、特にウルムチなどは近代的な大都会で活気に満ちた若い人が満ちあふれていた。
ただ、今回の旅行はかなり贅沢なもので、その地で最高のホテルばかりを利用し、バスや飛行機で比較的よく整備された観光地を足早に巡っただけなので、あまり実体を捉えていないかもしれない。高級ホテルの施設は日本や欧米のホテルと変わらず、IT事情も良好でウルムチのホテルではコードをつけたLAN端子もあり、パソコンを持ち込めば簡単にメールやインターネットが利用できる。
この地方の住人はウイグル族などの遊牧民族が主で地方へ行くと少し貧しさも感じられ、まだ発展途上のところも見られる。例えば、バス旅行の途中の休憩所などにあるトイレは昔のままのものが多く、かなり非衛生的なところがある。 また、地方のホテルは最高級の所でも施設はあっても管理が悪いところもあった。
買い物は正札販売でなく、土産屋などでは半額近くまで値切って買うのが常識だそうである。私もかなり値切って、刺繍製品や乾し葡萄などを買った。今時中国製の食品を土産にすると白い目で見られそうであるが、少なくともこの地方の乾し葡萄は乾燥剤を含め化学薬品は一切使用していないそうであり、産地トルファンなどを見ると信用しても良さそうである。実際、大変美味しく、お裾分けした人からもっとほしいといわれるほど好評であった。
中国料理(といってもこの地方の料理)もなかなか美味しいものが多いが、羊の丸焼きなどは珍しくても私の口には合わないものもある。しかし、中国風の食べ方で、好きなものを好きな量だけ食べればよく、食べ過ぎて胃腸を悪くす恐れがないのが何よりである。 また、果物、特にハミ瓜などは大変美味しく水分の補給にも欠かせない食べ物である。